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妻もペダルも踏み越えて 広島死闘編









 








 















 











元新聞記者 上野さんのひとりごと





















 















素朴な疑問

○1995年8月号掲載

「逮捕されようとしたとき、尊師はなぜ空中浮遊の術で逃げなかったの?」
 オウム真理教の一連の報道の中で、ある子供が発したこの問いかけが、私には一番おもしろかった。大人には滑稽な疑問だろうが、幼い子供たちがそう思うのは当然だ。同時に、この疑問にまともに答えてくれない大人たちに不信感を抱くのも、ごく自然な成り行きだろう。

「人間にそんな能力が備わっているはずがないじゃないか」
 たいていの大人は深く考えずにそう言い、一笑に付する。実は私もそうだった。しかし、よくよく考えると、事はそう簡単ではない。なぜなら、空中浮遊を会得しようと真面目に修行している多くの信者たちを、テレビカメラが執拗に追い、何度も映像にしている事実があるからだ。

「彼らは頭がおかしいから」
 単にそう言ってすませられるか。教団のトップが実行したとされる残虐な行為は論外としても、末端の信者ができそうもない技を体得しようとしている姿を見て、「なんて馬鹿な奴らだ」と言い切れる自信は私にはない。

 イワシの頭も信心から、という。つまらないものでも信心しているうちにありがたく思えてくる。日本人の宗教観の根底にある発想ではなかろうか。その点、オウム真理教は仕掛けが滑稽なほど芝居がかっていただけの話だ。イワシの頭ではなく空中浮遊だった。つまり、それだけの違いでしかない。奇跡を信じさせるのが宗教の一側面だとすれば、空中浮遊も矛盾してはいない。

 ただ気になるのは、既成宗教の側が「若者の心をつかめなかったのは我々の怠慢」などと妙に腰のひけた談話を出していることだ。葬式仏教がなぜいけないのか。正直言って、宗教の側に積極的に行動されては、少なくとも私は困る。そんな時代は住みやすいはずがないからだ。

 そんなことより、宗教が必然的に内包する「暴力性」を改めて見せつけてくれたオウム真理教へのグチでもこぼしてくれたほうが、よほどわかりやすかった。


※団体や個人の名称、役職等はすべて当時のまま。

2007 / 11 / 26 (月)



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